双休日的清晨,我在去菜市场买菜的路上,看到路边地摊上,有一位老人的竹篮里摆满了一个个鲜红饱满、娇艳欲滴的红柿子,好像一个个待嫁的新娘,羞涩里有着期待,翘望中有着眷恋。
看着这些诱人的红柿子,我忍不住停下脚步,买了几个,买完菜回到家中,迫不及待地选了一个最大并且熟透的柿子放入碗中用开水烫一烫,然后轻轻剥开那薄如蝉翼的柿子皮,嘬一口,一股软甜、绵润的味道立刻在唇齿间绽放,此时,那些关于柿子温馨的秋天的回忆悄无声息地在心间弥漫开来……
下面给大家分享《朝日新闻》的《天声人语》栏目。
柿の収穫が終わった木に、ぽつんと一つ実が残っているのをご覧になったことはないだろうか。それは「木まもり」というのだと白洲(しらす)正子の随筆に教わった。来年はもっと実ってほしいというおまじないかも……と書きつつ、思いを巡らせている。
柿子树收获后,树上还会残留一颗柿子。这种景象大家应该是见过的。我从白洲正子的随笔中得知,这叫“守树”。
「それは、自然に対する一種の礼節ともみられるし……実も葉もふるい落としたあとはさぞかし淋(さび)しかろうと、想像した人間のやさしい思いやりのようにも見える」。秋の青い空にある小さな朱色に、正子は心引かれた。
书中还展开了想象“这也许是在祈祷来年可以结更多的果实吧。也可以看做是一种对自然的礼节,也许是农夫在想,如果果实全部摘掉了,叶子也落光了,树一定会感到寂寞吧,一种来自农夫的温柔体察吧”。这秋日蓝天下的一点红色,让正子心醉。
夏が長く、秋が短くなった気がしてならないこの国だが、季節を彩ってくれる恵みの数々がある。なかでも柿は、奈良時代にはすでに食べていたというから、ずいぶん長いお付き合いである。
虽然如今感觉秋天越来越短,不过在这个国度里,在每个季节,都从来不缺乏来自大自然的食物。尤其是柿子,据称从奈良时代就已经开始食用了,算是我们的老朋友了。
数年前に九州の柿の産地で農協の人と話したとき、消費の伸び悩みを嘆いておられた。今や皮をむく果物は、それだけで敬遠されがちだと。少しの手間を惜しんであの甘さを味わえないとすれば、もったいない話である。
几年前,我在九州的柿子产地和当地农协的人聊过,他们都在感叹如今柿子的消费不景气,说如今剥皮的水果,只是因为剥皮的麻烦而被人们敬而远之。如果连这点儿麻烦都想要省,因此而不能品尝如此的美味甘甜,实在是太可惜了。
正岡子規は食いしん坊で柿も好物だったがゆえに〈柿くへば……〉の名句を生んだ。奈良の宿で山盛りの柿を食べていたら、鐘が鳴る音が聞こえたと随筆にある。「柿などというものは従来詩人にも歌よみにも見放されておるもので……」と得意そうに書いている。
正岡子規因为是个吃货且也喜欢柿子,所以才有了那首著名的《吃柿子……》。他在随笔中写过着这首诗的创作背景“一次在奈良寄宿,正在海吃柿子时,听到了不远处传来的钟声”。还写道“像柿子这样的水果,一直以来都被文人墨客们忽略了”,字里行间有种独具慧眼的得意。
あの句なかりせば、後の人々が柿にこれほど趣を感じることもなかったか。最近はその色ゆえにハロウィーンにちなんだ果物として並べるお店もあるという。それもまた新たな趣だと考えてみる。
如果没有他的那首著名的《吃柿子……》,后来的人们也许不会从一颗柿子开始如此地浮想联翩吧。最近因为柿子的颜色,柿子开始被作为一种万圣节水果销售。这也算是对柿子的一种新的浮想吧。